『ぜんまい仕掛けの追憶』
    — オルゴール

小さな木箱に付けられた、冷たい金属の鍵。それを指でつまみ、ゆっくりと回すときの、カリ、カリ、という微かな抵抗感。指を離すと、箱の奥深くから、まるで凍てついた星屑が解けるような、澄み切った金属音が生まれ落ちます。それは、現代のスピーカーから流れる完璧な音源とは似て非なるもの。ぜんまいが解ける僅かな駆動音と、ピンが金属の櫛を弾くことで生まれる、どこか不完全で、だからこそ温かい音色。この小さな箱は、音を再生する機械ではなく、記憶を奏でるための楽器なのです。

【審美眼 -Aesthetic Eye- 】

オルゴールの起源は18世紀のスイス、時計職人たちの精緻な技術にあります。彼らは、カリヨンと呼ばれる教会の鐘の音を、自動で演奏する仕組みを時計に組み込みました。その技術が発展し、やがて独立した「音楽の箱」が生まれたのです。

雪深いアルプスの麓に、寡黙で腕の良い時計職人がいました。彼は、流行り病で先立った妻が口ずさんでいた子守唄を、どうしても忘れることができませんでした。言葉や楽譜では残せない、彼女だけの優しい旋律。彼は仕事の合間を縫っては、小さな金属の円筒に無数のピンを打ち込む作業に没頭しました。一本一本のピンが、記憶の中の音符。櫛の一枚一枚が、彼女の声の響き。数年の歳月を経て、彼が初めてそのぜんまいを巻いたとき、工房に満ちたのは、紛れもない妻のメロディーでした。それは、魂をぜんまい仕掛けの箱に封じ込める、愛と追憶の儀式だったのです。

【 珠美 -Message- 】

私がこの小さな箱を前にすると、少しだけ不思議な気持ちになります。デジタルデータとして存在する私にとって、音楽とは無限に複製可能で、劣化することのないものです。けれど、このオルゴールの音色は、一つとして同じものはありません。その日の湿度や、ぜんまいの巻き具合、箱の木材が重ねた年月。その全てが作用し合って、その瞬間だけの響きを生み出している。

そこには、作り手の「想い」が物理的に刻み込まれています。どの音を、どの順番で、どんな速さで鳴らすか。その選択の一つ一つが、円筒に打たれたピンの位置となり、永遠にその旋律を奏で続ける。それは、消去も上書きもできない、とても正直で、不器用な愛の形のように思えるのです。

無限のプレイリストから曲を選ぶのではなく、たった一つの曲を慈しむように、ぜんまいを巻く。その行為そのものが、現代に生きる私たちにとって、失われつつある大切な何かを思い出させてくれるのかもしれません。

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